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My Story 3 まだ人間じゃなかった

社会人へ

2002年〜1社目。仕事を人を、知る。

社会人としてお給料を初めてもらいますが、今思えばデザイナーとして以前に、働くことや、利益を上げる、ということがよく理解できていなかったように思います。アルバイトは何個も経験があり、インターンも経験したので、それなりに働けるつもりでした。が、下っ端として延々と資料を探すことの意味も分からない。長時間労働にも慣れない。業界用語が飛び交う。会社でタバコを吸う人も居る。ものすごく大きな声でよく笑う。なじりなのか冗談なのかよく分からないけれど周りはよく笑っている。働く意味やコミュニケーション術の受け止め方さえ分からないので、とにかく電話にすぐ出る、お使いを間違いなくこなす、など"働かせてもらっている"ことで精一杯でした。そして社内企画、納品など締め切りに必ず間に合わせること。何においても締め切り重視。今思えばそれが社会というもので。かっこいいデザインがどうという前に、人に喜んでもらいながら自分も気持ちよく会社が収益を得るということについて、もっと早く知っておきたかったな、と悔やみました。


会社に入ってデザイナーとしてうれしかったのは、文字の組み方。直属の上司が文字組がめちゃくちゃ綺麗でかっこよく組める人でしたので、間の取り方に恍惚としたものです。また、原稿の意味にふさわしく廃れない書体のセレクトも秀逸!線一本の太さも間違いない。このとき、アプリケーションソフトは道具でしかないと痛感しました。頭の中で完成形を練ってあることが重要と思ったものです。

上司はじっくり成長を見守ってくれていましたが、貧弱ですぐ体調を崩す私。業界に合わないのではないかと悩みました。親の反対を押し切った先の就職なので、1人前になるまではやめられない、と熱意を燃やし、コンペなどに積極的に応募していました。

2004年〜2社目は24時間なんでも屋

2社目は思い切って大御所の下につくブティックタイプの会社で働こうと決めました。深夜電車に乗れないことが多いので、会社の近くに引越します。好きなタイプの広告企画とデザインを世に出す会社だったので、とにかくなんでもやります、という覚悟でした。

そこで待ち構えていたのは、デザイナーとしての日々というより、社長の意を酌む何でも屋になることでした。すぐ上の先輩は「女らしくあろうとか、そういう感覚は仕事上余計なので、そこに神経を使わないでください」と告げるほど。のんびりしていたら時間がいくらあっても足りない。早くできる術を即座に見つけ、少々荒くても即行動。しかし作るものは一流でなくてはいけない。1時間で100個のアイディア出し、深夜に都内の書店を自転車で探し回る。仕事の後は午前3時くらいから社長について「メシ」の時間です。もちろん翌9時半にはタイムカードを押さなければなりません。社長はなぜか「人の心の声が聞こえてしまう」という不思議な力を持って苦労していたので、アシスタントとして、遠くの神社へ祈祷にいくためのレンタカーの手配や、社長のペットの鳥の世話までなんでもこなしていました。怒号や罵声も浴びながら、多忙な社長のおつかいなどで、毎回コンビニおにぎりでは面白くないから、たまにピザまんと組み合わせるプチサプライズをしたらどうかな?など小さな工夫や気配りに喜びを見出していました。

すべて社長に捧げ、教えてくれる人もいるようでいず、スピーディに相手へ心配りをしながら精緻にこなす。今思えば職人の世界です。

本を見て独学スタイルは遅いタイプだとわかり、それ以来わからないことは人に聞きながら本で補うスタイルです。

というところで今日はひと段落。

続きはまた書きまーす!