· 

My Story 2 濃厚ティーンエイジ

戦国の中学時代

人間関係の緊張とストレス

勉強の量が増え、部活も毎日夕方まで。新たな同窓生たちとの関係や先輩後輩の縦社会も加わり、人間関係も小学校時代からさらに激化します。自分が渦中にいなくても影響は大きく、空気は常に一触即発。弱肉強食の下克上です。本当は抗議したいけれど何か発言すると注目を浴び、攻撃の的になるので、嫌われないよう懸命に人に合わせていました。黒い大きな渦がグルグル巻いているように感じ、日々気持ちを押し殺していましたね。その代わり、家で感情を爆発させていました。精神的にハードな生活に戸惑い、一度だけおねしょをした記憶があります。

音楽と野山と生き物

悶々とした気持ちのときは、畑や田んぼの仕事にいき、土いじりをすると気分が爽快になる、とわかり、部活のない休日は野良仕事の手伝いに行っていました。犬とは言葉は交わさずとも一緒にいるだけで安らぐ気持ちになるので、犬の存在にも救ってもらっていました。他にも、家には猫が3匹、鶏が7〜8匹、ウサギが40匹くらいいたので、生き物の可愛らしさやたくましさが、ささやかな癒しでした。

 

期待とともに入部した合唱部でしたが、学校生活同様に部内の人間関係にうんざり。とはいえなかなか優秀な合唱部で、歌の表現の完成度への意識が高く、それがとても心地よく、声を響かせ合うことに夢中になります。ピアノも上手いか下手かというより、夢中になって何時間でも弾いていられました。

言葉にできない気持ちのやりばを自然や生き物や音楽に求めていた頃です。

塾はホッとする

中3になると受験への闘志を燃やします(田舎なので受験=中3がスタート)。通うには遠い進学校を目指し勉強。勉強でも自分のポジションを確保しようと必死でした。田舎の塾なので選ベなかったのですが、学校と違う空気があって素直になれた部分もあるかもしれません。

高校はなんて平和

心が花ひらく

目標校への進学が決まり、意地悪やドロドロした関係、感情の渦とはほぼ無縁の、真新しい世界に驚愕します。まるで白い凪の世界。学校の勉強のスピードの早さと量の多さについていけず、生まれて初めて置いてきぼりを感じてそちらも驚愕しました笑。逆に部活が生きがいと化します。合唱は理想と違ったため入部しなかったのですが、部活はなぜか放送部を選び、シナリオ作り、朗読、アナウンスや、テレビ・ラジオの番組作りにのめり込みました。全国大会に出場し、目指す視野が広がりました。家や地元との距離もちょうどよくなり始めました。文化祭のクラス衣装作りや、美術セットの作り込みなど

出口汪の現代文にハマる

成績の低迷を変えたくて、ビデオ学習型の塾へ通い始めます。授業を通して、受験のための攻略法の考え方やポイントの押さえ方、単語の覚え方、やる気の維持など、戦略的な方法にとても刺激を受け、勉強が面白くなります。特に出口汪さんの現代文の話がとても面白く、ビデオ学習とは思えない熱い気持ちが教室に満ちました。もっと早くこの先生に出会っていたら…と思うこともありましたが、文系3教科に絞った勉強法にし、分からないストレスが激減。楽しく勉強に取り組むようになりました。


大学進学

一人暮らし。哲学系のゼミをとる。

はじめ、地元の大学へ進学が決まり、暗澹たる思いでした。予想していた大学生活とは全く違うと思ったのです。が、そこでまたまた役をやりたがります。世話人活動やサークル活動、アルバイトや友人関係で、様々なタイプの人と繋がり、物事の捉え方など、人生の大きな学びを得ます。講義もおもしろい。社会学系の学部だったので、社会はどういう条件で社会的と言えるのか?や、文化と社会の相関関係、法の存在意義や法律が社会で果たす役割、関わりの中で生まれる人間の心理、社会で調査をする際の方法、実際に地域社会で何が起きているのか調査合宿を体験するなど、原理的な話から実務的な内容まで様々なことを学びました。「学び=教養」から「考え、実践し、結果を得るおもしろさ」へとステージが上がった頃です。全国各地から集まった興味深い友達と共に、社会とは何かということを様々な角度から自分に問いかけた日々で、とても刺激的でした。

友人がまぶしい。

中学時代のように疑心暗鬼になるような人間関係とは縁もなく、基本的にみな楽しい人ばかりでストレスがないですが、時に友人の輝きが眩しすぎるように感じ、自分を低く評価して積極的になりきれないところもありました。自己肯定感の低さを痛感した頃です。

哲学系のゼミ友達は変わり者。

1年の時は一つの事象を掘り下げて考える、哲学系のゼミに所属します。そこの仲間は変な人ばかり。自分の自己肯定感の低さや社会の暗い部分もおもしろがる。暗さをおもしろさやエネルギーに変えられる場として、自分にとっても居心地がいいところがありました。闇の部分を追求しつくし表現で昇華するのです。創意と表現で救われるという感覚です。どうなるかはわからないけど、今後そのまま表現し続けて生きたい、とジリジリ焦げるような熱と共に決意します。その後、この付き合いの間柄から世界的なダンサーや芥川賞小説家など、本格的な表現者が誕生していくのは驚きでした。

ノートが売れる。

私の特性が現れたのが講義ノートです。わかりやすいと評判で、テスト前になると有料で売れたのです。真面目にコツコツ出席していた私よりも、普段の講義は欠席している友人が私のノートでテストを受け、高成績を取ったり、わからないことをわかりやすく見える化することに周り方も評価がありました。

祖父という存在

大好きな祖父がこの世を去ります。祖父がいない。その喪失感から立ち直れず、仲のいい友人とも距離を置きたい気持ちになったり、とても元気がない時期でした。今思えば鬱になっていたんじゃないかと思います。自分自身の存在が危うくなるたびに絵を描いたりノートに思いを吐露してバランスを保ちました。

顎を削る大手術

長年の矯正が一通り終わり、二十の頃には顎の骨を削るという大手術を受けました。体の機能がよくなるという期待にワクワクする一方で、レントゲンでここを切るよ、という医師の説明に吐き気がしたり、心がアンバランスでした。顎の骨を削り、顔が風船のようにパンパンで、くまのプーさんのようでした。歩くと振動がズンズンと顎以外にも頭蓋骨全体に響き渡るのですが、若いので妹と遊びに出かけたりしながら、3ヶ月ほど流動食で過ごしました。痩せるかな?と期待しましたが、よくできた流動食で、栄養面はバッチリ。全く痩せませんでした。

教育実習、行ったら…あれ?

母校での教育実習が始まりました。鳥のフンが直撃したのは一生のうちこの時だけでしょう。母校は進学校だったので生徒たちはとても優秀でいい子です。その分、何にも挑戦していない自分がこの子たちに夢や朝鮮を語るにはバックグラウンドが薄すぎると痛感する事態に陥ります。また、職員室での時間があまり馴染めず、自分の居場所ではないと感じてしまい、幼い頃からの夢から一旦離れることを決意します。というのも、教育業界への就活もしており、そのための自己分析シートで今までの自分を振り返ったとき、初めて自分が生きていくには「表現」が欠かせないと認識したのです。田舎に住んでいたので、絵や表現が仕事になるのは看板屋さんくらいしか思いつかなかったのです。大学4年を目前に、とうとう親に「デザインやアートを学びたい」と告げます。当然ですが、「想定外だ」「就職はどうするんだ」と反対を受けます。


専門学校へ

思い切り表現するのは楽しい!

親の反対を押し切ってアートやデザインを学ぶ専門学校の道を選びます。自力で教育ローンを借りようとしたりと、一生の中でこれをやらないと自分を維持していけないと強い覚悟がありましたね。専門学校の入学式後、専攻科の先生が、「この中で1人デザイナーになれればいいほうだ」と厳しい予言をします。その世界は厳しく、評価基準は1位か1位じゃないか、という競争原理の世界。ひたすら必死で課題をこなすため、バイトはしませんでした。初めて自分の表現を他人に評価される日々で毎回心臓もえぐられ、胃も痛く、でもここで自分を出し切らないと恥ずかしいという気持ちで、寝る間も惜しんで課題をこなしていました。そんなハードな生活に、田舎で育った私には東京の水があわず、体のあちこちが崩壊します。しかし、心優しくおもしろく霊感の強い友人ができ、とにかく刺激しあえる仲間でした。下の妹も大学進学と同時だったので、同じ屋根の下、楽しい生活を送りました。

というところで、今日はここまでです!

続きはまた書きまーす!