· 

My Story 1 まっすぐいくよ、よく見えなくても

畑の中でよく泣くひ弱な赤ちゃん

私は、福島県二本松市(旧東和町)に生まれました。家から車で25分ほどの市内の病院。当時、誕生後の2日間は母子別室で過ごすのが当然の時代でした。

 

母の母乳はあまり出ず、「ボンラクト」という大豆粉ミルクで育ちました。

 

男女雇用機会均等法は1986年施行ですから、1978年当時、母は産後2ヶ月で職場復帰しました。育児の場は、日中は畑仕事をする祖父母と畑の中でした。 

祖父は大正生まれの戦争を経験した軍人であり、農民でもあります。男5人の父であった祖父にとって、初の内孫が女の子です。かわいい以外の形容詞がありませんよね。厳格な祖父は自らの子育ては祖母任せだったのが、私が生まれたとたんオムツ替えもするほどで、近所も親戚もがびっくりしたらしいです。

 

 

小さな私は家系的に呼吸器系が弱く、周りはとても心配していました。2歳になるころには妹ができ、同時に肺炎で医大に入院しています。嫌なことはキーキー癇癪を起こして泣いていたそうです。中耳炎など体調の悪さも関係していたのでは?と母は言っています。

 

相変わらず祖父母と田畑に出かけ、歌が好きで、童謡や演歌を歌っていました。

 

松村和子さんの昭和歌謡『帰ってこいよ』をこよなく愛し、ハエ叩きを三味線がわりに熱唱していました。

美意識とファンタジーと正義感

かわいがる祖父に甘えたい一心でしたが、農作業で忙しい祖父とスキンシップができるのは夕方か朝。4歳の頃には2人目の妹も誕生し、祖父を独り占めできなくなってしまいました。ちょうどその頃にはおたふく風邪から脳髄膜炎にかかり再び医大で入院生活。

 

入院は、看護婦さんが優しく、同室の友人もまた優しく、意外と楽しい思い出でしたが、実際は背中にぶっとい針を何度も刺し、治療をする日々で、見た目には痛々しかったことと思います。

 

退院時、母が素敵なワンピースを用意してくれ、人生で初めて「おめかししてる!」と実感できた瞬間でした。とても嬉しかったですね。その足で家に到着し、家族から花束をもらいました。花束がお手製で新聞紙に包んであり、なぜ素敵な透明フィルムのラッピングじゃないのか、と気に入らず怒ります。

今振り返ればお祝いと歓迎の気持ちに対してとても申し訳ないのですが、美意識の強さの象徴的な出来事だなとも思います。(家族のみんな、ほんとにごめんなさい💦)

 

そして、想像や夢の世界と現実の区別がはっきりしておらず、戸惑うこともありました。夢で見た世界での感情ははっきりと覚えているのです。家の裏山にとても楽しい大人の仕事場、そう力強い創造の現場がありました。男の人たちがチームで地ならしをし、重機で山を拓いていく風景です。私もそんなふうに何かを拓き、夢から何かを作りあげる仲間になりたい、と、一人裏山に上りたがりますが、2メートルも登れず滑り落ちる。あんなにくっきり見えた風景なのにそこに行っても未開の雑木林。それが不思議でなりませんでした。

 
また、3〜4歳の頃のもう一つの特徴として正義感の強さがありました。テレビの世界の正義の味方全員に憧れ、いつかテレビの中に入って悪い奴を倒す!と強く燃えていました。祖父も正義感が強く、社会奉仕と社会貢献の心に溢れた人だったので、幼心に祖父に憧れていたのだと思います。

 

4歳ぐらいで近所の同級生と出会い、人見知りを知りました。

「見た目も性格も自分とはすべて正反対」という人と出会う最初の人、それがこの後中学卒業まで一緒だった同級生です。

新しい世界!幼稚園

幼稚園が始まり、家の外へ毎日歩いて通います。生活に楽しさを見出すきっかけとなりました。

砂遊び、お遊戯、お絵かき、歌、給食。どれも楽しく休みたくない!先生もいろんなことを教えてくれて大好き!家でも「お母さん」を「先生」と言い間違えるほどです。憧れた故、将来は先生になりたいと初めて思うのでした。

 

一方、いろんな人間がいることに戸惑います。

積極的な部分もある一方、自分に声をかけてくれる人と遊ぶことが楽で、自分の中に初めて不安定さを感じます。

勇気を出して「混ーぜーて!」を言うようになります。これは生きる作戦として「一緒に遊んだら楽しそうな人」と言う印象づけが必要そうだとも感じ始めます。が、反面、別の自分を演じているようで嫌な気分も感じます。

 

先生になる!先生に憧れた小学校低学年

5歳で幼稚園側の公立小に入学します。学校までは変わらず歩いて30〜40分です。

担任の先生が見た目も名前も字も、あらゆるものが美しくやさしそうな人で、いっぺんに好きになりました。

すぐに憧れ、希望を抱き、この先生に認めて欲しいと意欲がわくようになりました。

行き帰りの登下校班で例の何もかも正反対の友人とは宿命的に正反対なので、意見が合わずむすっとしていることもありました。

とはいえ精神的には体育会系の私。暑い日寒い日も鼻水が止まらなくても休まず学校へ行き、「先生係」になり先生の雑用を喜んでやりました。とにかく憧れの先生のそばにいられることが楽しく、こっそり先生と手紙も交換し、バラ色でした。

 

入学と同時に、初めて極度の近眼と乱視だとわかり、幼いがらもコンタクトレンズを使うようになります。実は大好きな景色も家族も生まれつき全く見えていなかったのです!ぼんやりぼやけた風景の中、きっと何度も転んだことでしょう。コンタクトレンズの扱いも覚束なく、シンクに流したり落としたり…は数えきれません。(お母さん、ごめんね)

 

好奇心は旺盛で、なんでもやってみたくなり、放課後も書道教室や、ピアノ教室に通い出します。

そして父が定額制の本を買ってくれるようになりました。百科事典に物語…。大好きだったのは、絵の美しい物語です。様々な時代と土地に連れて行ってくれる本の世界に憧れを抱くようになりました。 

とにかく忙しいのが好き!小学校中学年

小3で初めての男の先生が担任になります。

先生に対して批判的な一面も出てきますが、授業は楽しく、4年生にもなるとピアノに加え合唱や水泳などの部活や習い事、週末のスポーツ少年団(夏季:ソフトボール、冬季:バドミントン)など、忙しくしているのが好きで、家の外に居場所があるような状態でした。

 

とにかく、やる?と言われたらやってみたくてしかたなかった!

自分に向き不向き、才能があるか?なんて関係ありませんでした。なんでも体験することを楽しみたかったんだと思います。 

 

田舎の小学校は幼稚園から持ち上がりの、永遠の1クラス。つっぱった性格の子が多い激動のクラスで、仲間はずれや暴力なども多く、争いが苦手で感受性の強い自分にとっては相変わらず人間関係には悩みがつきものでした。

それでも、冬はピアノ教室後、真っ暗な田んぼ道に大好きな祖父が歩いてお迎えにきてくれました。その時間がとても愛おしく、大切で特別な思い出でした。 

 

この頃、絵が認められる機会に多く恵まれ、将来は先生以外に絵の仕事=画家か漫画家(絵に関わる職業といったらテレビアニメに出てくるようなものじゃないと短じゃありませんでした)になるのもいいな、などと感じていました。

 

また、何かを工作することも好きでした。

休み時間内に終わらない時は授業の合間も机の下でこそこそ作業を続け、怒られることもありました。

役をもらいたい!小学校高学年

鼓笛隊の体調や生徒会副会長など、リーダーやそのサポート的なポジションにやりがいを感じるようになります。

 

ピアノは難易度が上がり、スポーツ少年団同様、やっていること自体より学校でもなく家でもない居場所を求めていた気がします。

 

5年生で熱血担任、6年生で新任の若い女の先生が担任に。クラスメイトの個々のエネルギーが渦を巻き、スポーツなどの勝負事は熱く燃えますが、それ以外は荒れるような激しい空気。先生や授業は楽しく大好きですが、クラスメイトとの関わりを見るのが辛くなってきます。人を信じることも難しく、強いストレスを感じ始め、家で爆発し始めました。それでも学校を休むのは嫌。中学まで変わらないメンバーかと思うと先が長く感じることもありましたが、心が通う友人だけで何か企画したりちょっと背伸びをするのが楽しかった時代です。

とりわけ合唱には夢中でした。歌っていると何も考えずに済むし、ハーモニーの織りなす一体感と美しさが心の癒しでした。 

 

 

 

というところで、今回は一旦おしまい。

続きはまた書きまーす!